はじめに吹出@4x
iroironasio あなたの地区の塩田資料_logo (1) いろいろなつかいかた 塩づくりの歴史タイトル 塩を運ぶ クイズ
塩は海水に約3%含まれているほか、塩湖(えんこ)や地下かん水(地下にたまった濃い塩水)、岩塩(がんえん)など、さまざまな形で存在しています。現在、世界では年間約2億8000万トンの塩が生産されています。そのうち、海水からつくられる塩は約30%で、残りは岩塩や塩湖など海水以外から生産されています。日本では1年間に約800万トンの塩が消費され、食用として使われる量は約10%(年間で約80万トンです)、残りは工業の原料として色々な分野で使われています。食用の塩は国内の製塩工場でつくられますが、工業用の塩はメキシコやオーストラリアなどから輸入される天日塩(てんぴえん)が使われています。
岩塩

ながい年月をかけて海の水が岩のような塩の結晶になったもの。大昔、地殻変動で海の一部が陸地になり、その海水が結晶化してできたと考えられています。

岩塩_2
天日塩

天日塩は、海水を塩田に引込み、太陽と風によって水分を蒸発させ塩を結晶させます。大規模な塩田でゆっくりと作られます。

天日塩
せんごう塩

海水から濃い塩水をつくり、その後煮つめて塩の結晶をつくる方法です。日本の食用塩のほとんどはこの方法で作られます。

せんごう塩_2
いろいろな塩吹出
塩は料理の味つけのほか、食品が腐らないようにしたり、発酵を助けたりといった食品加工にも利用されます。
食用以外には工業用として染料・合成ゴム・各種化学薬品や、病院などで使われる「生理食塩水」の原料にもなっています。
塩を原料とする工業はソーダ工業と呼ばれます。ソーダ工業では塩から塩素・か性ソーダ・ソーダ灰などを作り出します。か性ソーダからは紙・アルミ・石けんなど 、ソーダ灰からはガラス・ホーロー製品のうわぐすりなど、塩素からは水道の消毒薬・塩化ビニルなどがつくられます。日本で使われる塩の80%はこのソーダ工業に使われています。
いろいろなつかい方 キャラ
いろいろなつかい方 食用
いろいろなつかい方 工業用
いろいろなつかい方 キャラ
赤穂といえば塩!「忠臣蔵」とならんで全国的に有名な赤穂の塩!でもどうして赤穂は塩の産地として有名なのでしょう?
赤穂の塩づくりの歴史吹出@4x
海水から塩をつくるには、海水を煮つめて水分を蒸発させ、結晶化した塩を取り出します。この作業を「せんごう(煎熬)」といい、煎熬する海水の塩分濃度を高め る作業を「さいかん(採かん)」といいます。日本では縄文時代から現代まで、採かんと煎熬を組み合わせて塩をつくってきました。その方法は時代によってさまざま で、日本の塩づくりの歴史は「採かん」と「煎熬」をいかに効率よく行うかの試行錯誤の歴史といえます。
年表 塩つくりの歴史02_キャラ
年表
塩つくりの歴史02_キャラ
日本で最も古い製塩方法は採かんに海藻を使い、煎熬に土器を使用する「土器製塩法」や「もしお(藻塩)法」と呼ばれる方法です。縄文時代後期(約4,000 年前)頃から平安時代頃まで行われていたことがわかっています。
採かんには、乾燥させた海藻や焼いた海藻を海水に入れて上澄みをとる藻塩法が用いられていました。また、煎熬には専用の土器(製塩土器)が用いられました。
瀬戸内海沿岸部ではこの製塩法が弥生時代中期から平安時代にかけて盛んに行われ、製塩遺跡から煎熬後に捨てられた製塩土器が大量に見つかっています。塩はこうした遺跡で集中的に作られて、各地に運ばれていったと考えられています。
製塩土器_堂山遺跡
赤穂市出土の製塩土器(堂山遺跡)
製塩土器_東有年沖田遺跡
土器に詰められた製塩土器片(沖田遺跡)
最初の塩づくり吹出@4x
土器製塩法・藻塩法
※推定されている方法の一つです。
赤穂では塩屋地区にある堂山遺跡で弥生時代終末期の製塩土器が出土しており、この頃から塩を生産していたことがわかります。しかし、赤穂の製塩遺跡は少なく、また市北部の有年・沖田遺跡から製塩土器が出土しているように、海浜から内陸の集落へ塩が運ばれていたようですが、自給自足の域を出なかったと考えられています。
堂山遺跡では古墳時代後期や飛鳥・奈良時代の製塩土器も出土しており、同じ方法で塩づくりが続けられていたようです。全国的には奈良・平安時代頃を境に、海砂を利用する塩浜・塩田が出現し、製塩土器に代わり塩釜が使用されたと推定されています。
最初の塩づくり吹出@4x
奈良時代になると採かんと煎熬に大革命がおきます。
採かんでは海藻に代わり海砂を利用する方法(塩尻法、塩田法)が開発され、大量の濃いかん水が採れるようになりました。
「しおじり(塩尻)法」は干潮時に塩の結晶が付着した砂を集める方法で、「えんでん(塩田)法」は砂浜の広い範囲に人為的に海水を撒き、乾燥した砂を集める方法です。砂に付いた塩は沼井(ぬい=かん水抽出装置)に集め上から海水をかけることで大量のかん水を作ることができました。
海砂による採かん革命吹出@4x
塩尻法・塩田法
塩尻法・塩田法
製塩土器・貝釜・石釜・鉄釜
煎熬方法の変遷
煎熬では製塩土器に代わり、釜が出現します。
大量のかん水を煎熬するため、この時代の製塩土器は大きなものが増えていきますが、さらに製塩土器に代わり、貝釜(土釜)、石釜、鉄釜などの釜を用いて、大量のかん水が煎熬できるようになりました。
こうして塩の生産量は増加し、1ヶ所で大量に塩を作る「塩田(塩浜)」が出現してきたのです。
海砂による採かん革命吹出@4x
奈良時代に入ると人工的に海砂に海水をまき、砂に塩を付着させる「塩田」が出現します。
初期の塩田では人力で海水を運び、敷きつめた砂の上に散布し、天日と風により乾燥させ、砂に塩分を付着させます。砂が乾いたら沼井に集めて海水をかけて濃いかん水を作り出していました(揚浜式塩田)。
人力で海水を塩田まで運ぶことから小規模なものが多く、天候の悪い日や冬場には作業できず、主に春から秋にかけて作業が行われました。
海から桶で海水を汲んできて、広く敷き詰めた砂の上にまくのですが、海水を汲み取る場所や砂の広げ方、海水を均一にまく方法など独特の技術があったようです。
兵庫県立赤穂海浜公園内の復元塩田「塩の国」にはこの揚浜式塩田が復元されており、簡素なつくりの釜屋も再現されています。また、石川県珠洲市には現在でも揚浜式塩田が残っており、国の重要無形民俗文化財に指定されています。
最初の塩田吹出@4x
揚浜式
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復元された揚浜式塩田(兵庫県立赤穂海浜公園「塩の国」)
揚浜式塩田模型
揚浜式塩田模型(赤穂市歴史博物館)
最初の塩田吹出@4x
奈良時代の赤穂の塩づくりを見てみましょう。古文書によると8世紀、東大寺や西大寺が赤穂に「塩山」を持っていたことがわかっています。塩山は煎熬用の燃料を採取する山のことで、塩尻法で採かんされたかん水を塩山の薪で煎熬したと考えられます。9世紀になると後に「赤穂荘」と呼ばれる東大寺の荘園「石塩生荘」で塩浜50 町余、塩山60 町あったと記されています。塩浜とは小規模な塩田と畑地などが混在する干潟一帯のことで、海岸線に点在していたとされています。
11世紀になると赤穂でも塩田が出現します。堂山遺跡で見つかった塩田跡は11 世紀中頃~13 世紀ごろまで操業された揚浜式塩田の一種「汲潮浜塩田」だったと考えられています。
この塩田は干潟の波打ち際に堤防を築き、堤防内側を埋め立てて人工の塩田を造成したものです。塩田の高さは満潮位よりもやや高くなっており、満潮になると堤防の下まで海水が満ちてくるので、堤防の上から海水を塩田に汲み上げることができ、省力化を図ることができました。
汲潮浜式
赤穂塩田のはじまり吹出@4x
室町時代に入ると入浜塩田の初期段階、古式入浜塩田が出現します。
古式入浜塩田は満潮時に海水につかり、干潮時には陸地になる場所に堤防や浜溝を巡らせて、潮の干満で海水を塩田に取り込めるようにした(海水の汲み上げ作業を必要としない)塩田のことです。このような塩田を古式入浜と呼び、平安時代以降に瀬戸内海沿岸で登場したと考えられています。
『播州赤穂郡志』(享保12 年頃、藤江熊陽著)によると、1492 〜1521年頃に、塩屋の高山山麓に居住していた人々が、田畑の耕作や塩田労働に便利なように加里屋に移り住んだと伝えられています。人々が海辺に移住したのは、汲潮浜塩田のような内湾の山麓にあった塩田が、千種川河口の三角州を利用した古式入浜へ変わったためではないかと推定されています。
なお、当時の赤穂ではどのくらいの塩が生産されたのでしょうか。15世紀には赤穂産の塩35 石を積んだ船が兵庫北関を通過したという記録が残されています(『兵庫北関入舩納帳』)。しかし、赤穂の塩を運んだ記録はこの一回きりで、同じ記録には瀬戸内の他の場所の塩を積んだ船の記述が頻繁に出てくることから、室町時代になっても赤穂の塩生産はまだまだ少なかったのではないかと考えられます。
古式入浜_模型02
揚浜式塩田の模型(赤穂市立歴史博物館)
古式入浜塩田の様子
古式入浜塩田の様子(赤穂市歴史博物館)
古式入浜 古式入浜塩田吹出@4x
古式入浜塩田吹出@4x
江戸時代にはいると古式入浜塩田に代わり、より大規模かつ効率化された入浜塩田が出現します。
入浜塩田は、塩田地盤を干潮と満潮の潮位の中間に造成し、周囲を防潮堤で囲って、海の干満差による水位変化があっても塩田作業が影響されないようになっています。このため、入浜塩田では、毎日決まった時間に、決まった工程で採かん作業を行うことができる等、効率的な塩づくりが可能になりました。
この堤防によって囲まれた部分を「うつろ」と呼び、内部は堤防に沿って水路(潮まわし・大まわし)が巡り、さらに塩田の間には浜溝が作られ、塩田は短冊形に区画されています。
満潮時に堤防の下部に設けられた伏樋から内部に海水を引き込み、浜溝へと必要な分だけ海水を入れます。逆に干潮の時には、内部から不要な海水を外に排出します。
浜溝に引き込まれた海水は塩田地盤にしみ込み塩田地盤上の砂(撒砂)を湿らせます。湿った砂を人力による引浜作業や、太陽・風の力で乾燥させて砂に塩の結晶を付着させます。この砂を塩田の所々に設けられた沼井に集め、海水をかけて濃度の高い塩水(かん水)を取り出します。
入浜塩田の誕生吹出@4x
入浜式塩田
江戸時代_入浜式塩田
うつろ内部(水尾、浜溝)
古式入浜_模型02
集砂風景(昭和30年代)
入浜塩田の誕生吹出@4x
塩田での作業で取り出したかん水は、堤防上のかん水槽に蓄えられ釜屋で煮沸して塩が作られます。堤防上にはかん水槽、釜屋の他に俵装された塩を収める塩納屋、釜焚きの燃料である薪や石炭を収める石炭納屋(石炭置場)、塩田労働者らが休憩した浜小屋がありました。
釜屋の内部は5間(約9m)四方で4本柱、屋根は茅葺きの入母屋造りで、中央に塩釜(石釜または鉄釜)を置きました。
かん水は撥ね釣瓶(はねつるび)で塩田側のかん水溜からかん水槽へと移され、かん水槽から釜屋内の温め釜(ぬるめかま)に移されます。温め釜は釜屋の煙道上に設置されており、煙道の排熱を利用してかん水を温めておきます。温め釜で温められたかん水は、塩釜で煮詰めて塩にしました。
焚きあげた塩は釜屋内壁にそって設けられた居出し場で余計な苦汁(にがり)を取り除き、塩しまい場で塩俵や塩叺(かます)に入れられました。
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江戸時代_入浜式塩田
煎熬実況1
煎熬風景(昭和30年代)
赤穂の製塩用具_P61_釜屋平面図
釜屋内部
入浜塩田の釜屋吹出@4x
17世紀の池田家時代には、右図緑色の部分に塩田があり、それ以外の部分ではまだ広大な干潟が広がっている状態でした。
浅野家の時代になると右図青色部分の塩田が開拓されます。1667年には唐船大土手が完成し、「大」、「十三軒」、「唐船」の塩田が順次開発されます。この頃、東浜の塩田は100 町歩に及びました。
浅野家に続く森家の時代になると西浜の開拓が本格化し、右図紫色部分の塩田が開発されます。18世紀には「八田浜」に始まり「東沖手」まで150 町歩が開発されました。
このように、赤穂塩田は江戸時代を通じて拡大され、江戸時代の末には東浜150 町歩と西浜約250 町歩のあわせて400 ヘクタールに及ぶ広大な入浜塩田地帯が形成され、全国の塩生産の8%程度を占めていたといわれています。
また、東浜では差塩(さしじお)、西浜では真塩(ましお)のように、東浜・西浜ではそれぞれ塩田の特性にあった塩が生産されました。
西浜では千種川からの淡水が混じるため、苦汁分の少ない上質な塩ができることから主に真塩が生産され、大坂や京都などに出荷されました。この真塩を高温で焼き、塩に含まれる塩化マグネシウムを酸化マグネシウムにしたものを焼塩といい、土産品や贈答用、高級な食卓塩として用いられました。
東浜では、煎熬中に苦汁を差し入れて結晶させた差塩が特産で、大部分は塩廻船(かいせん)で江戸などの関東近郊や東北地方に出荷されました。差塩は食用はもちろん漬物など食品加工用としても広く用いられました。
赤穂塩田の発展吹出@4x
塩田の発展01@2x
赤穂塩田の拡大(奈良時代~幕末)
赤穂塩田の発展吹出@4x
入浜塩田の採かん作業は沼井に残っている前日の砂をかき出し、万鍬で広げる作業(引浜)からはじまります。そして潮かけ杓で浜溝から海水を散布して、塩田表面の砂に海水が浸透するのを促します。そして再び引浜作業によって湿った砂の乾燥を早め、砂の表面に塩の結晶を付着させます。これを寄柄振でかき集め、沼井に運び入れます。沼井の下穴に溜まった残り水(藻垂)と海水を注ぎ入れ、砂の表面の塩を洗い流してかん水をつくります。かん水は木樋で流され、はね釣瓶でかん水槽に移され、釜屋で煮沸して塩が作られます。
この採かんから煎熬までの作業一式を行う塩田を「一軒前」といい、その面積は約7 、8 反から1町(約1ヘクタール)です。一軒前あたり約10 人程の塩田労働者と釜屋1棟がセットになり、塩田の経営単位となります。
赤穂流入浜塩田の画期的な点は、この一軒前の塩田規模を塩田開発当初から計画的に作り出し、製塩専業の経営単位としたことでした。また、赤穂流入浜塩田では石釜の作成方法や引浜方法で「赤穂流」と呼ばれる技術が確立していました。
赤穂流塩田は瀬戸内海沿岸地域を中心に伝わり、特に瀬戸内海沿岸の10 カ国(播磨・備前・備中・備後・安芸・周防・長門・阿波・讃岐・伊予)は「十州塩田」と称され、元禄期には日本の塩生産の約8 割を占めました。さらに赤穂の製塩技術は仙台・熊本・天草・鹿児島などにも伝えられています。
赤穂の塩は江戸時代に大変人気を博し、司馬江漢も書いているように「赤穂塩日本第一也」の評価を得て、偽物が出回るほどのブランド塩となって、赤穂に莫大な富をもたらしたのです。
赤穂式塩田の伝播
全国に広がった赤穂式塩田
日本第一
明治時代になると全国で塩の生産量が多くなり塩の値段が下がってしまいました。このため、明治38(1905)年、国は塩の生産量と外国の安い塩の輸入量を調整して国内塩の保護と製塩業の安定を図りました(塩の専売制)。
塩務局が各地の税務監督局内に併設され、赤穂・味野・尾道・三田尻・坂出・撫養の6 箇所には専用の塩務局が特設されました。
赤穂塩務局は明治41(1908)年に完成し、庁舎1 棟、文書庫1 棟、塩倉庫11 棟などの施設から構成され、大塩・網干に出張所、新浜・大塩・白浜・網干には倉庫が設置されました。
また、この時期には専売局の指導により様々な技術改良が行われ、生産コスト削減や品質向上が進められました。大正4(1915)年には、新しい採かん方法・用具が導入され、昭和初期にはコンクリート製沼井、かん水汲み揚げ用電動ポンプ、にがり除去用遠心分離機等が導入されました。煎熬方法では塩釜が石釜から鉄製平釜へ転換されました。
さらに、これまで塩田地主が行っていた塩田経営が同業組合による経営に代わりました。赤穂では大正9(1920)年に西浜信用購買利用組合、大正13(1924)年に東浜信用購買利用組合が設立されました。
昭和13(1938)年には、煎熬を釜屋毎に行うのではなく合同で蒸気利用式釜を用いる合同製塩工場が東浜で完成し、昭和23 年(1948)には西浜にも合同製塩工場が完成しました。製塩工場の出現により、これまで釜屋毎に行っていた燃料、塩の輸送が必要なくなり、高瀬舟、上荷舟も使われなくなりました。塩の輸送は大正10(1921)年に赤穂と国鉄有年駅間で開通した赤穂鉄道によって陸送されるようになりました。
近代の塩業吹出@4x
si_ako_minzoku01-1
赤穂塩務局
07-03-009-N01-03
コンクリート製沼井
2塩倉庫群
塩倉庫
釜揚げ
鉄製平釜
近代の塩業吹出@4x
採かん技術の向上や合同煎熬工場により大量に塩を生産できるようになると、次はいかに安く、効率的に作れるかが改良のポイントとなりました。
昭和30年頃になると塩田の人手を減らす「流下式塩田」が考案されます。
流下式では傾斜をつけ、水分が透過しない粘土で固めた地盤(流下盤)に海水を流下させ、それをさらに枝条架と呼ばれる竹でできた人工の木のような装置の上から滴下させて太陽・風の力で海水を濃縮する方法です。
流下式への転換により、入浜塩田に比べ年間採かん日数は110日から290日に増加、労働者数は1300人の削減となりました。また、採かんにかかる人手は1/10、生産量は3倍になり、大量の塩が安く生産できるようになりました。
また、煎熬方法では蒸気利用式釜から真空式蒸発缶法に代わり煎熬方法も効率化が図られました。
しかし、外国からさらに安い岩塩や天日塩が輸入されるようになると、国内の塩生産量そのものが次第に少なくなっていき、赤穂の塩の生産量も縮小していきます。
塩田法の最終形態吹出@4x
流下式塩田
復元された枝条架
復元された枝条架(兵庫県立赤穂海浜公園「塩の国」)
07-06-001-N04-02
流下式塩田(昭和30年代)
塩田法の最終形態吹出@4x
昭和40年代になると、流下式からさらなる効率化を図るため、塩田を使わずに製塩工場でかん水を生産する「イオン交換膜法」が実用化されます。
この方法は海水を入れた槽に陰・陽イオン交換膜を交互に並べ、直接電流を流すことで陽イオンのナトリウムと陰イオンの塩化物を選択透過させ濃いかん水を得る方法です。
赤穂でもイオン交換膜法を用いた塩づくりが試行され、西浜では昭和37(1962)年に小型設備による試験を開始、昭和42(1967)年から操業を始めました。昭和47(1972)年には15万トンの生産設備工場が本格操業しました。これにより塩田は不要となり、同年に西浜の塩田は全て廃止されました。
東浜では流下式塩田法での生産成績がよく、イオン交換膜法への転換はありませんでしたが、塩業整備(全国の余剰製塩設備の縮小)の対象となり、昭和47年12月をもって塩田を廃止、翌年3月末に組合が解散されました。
これにより、かつて赤穂の海浜部を埋め尽くしていた塩田は昭和47年に西浜、東浜とも全て廃止されてしまいました。
赤穂における製塩は現在も続けられており、西浜の塩業組合の流れをくむ日本海水株式会社では令和2(2020)年現在、イオン交換膜法及び真空式蒸発缶により年間約20万トンの塩を生産しています。
現代の製塩方法吹出@4x
イオン交膜換法
HH-01-H-644-05
イオン交換膜小型試験設備(昭和30年代))
2電力_R
株式会社日本海水 赤穂工場
現代の製塩方法吹出@4x
1972年代以降、イオン交換膜法が採用されると、不要となった塩田は順次廃止されていきます。
東浜塩田は住宅地化が進められ、昭和50(1975)年には海浜部の約72 ヘクタールが兵庫県立赤穂海浜公園となり、昭和62(1987)年には海浜公園の一角に「塩の国」が整備されました。塩の国では揚浜式塩田、入浜塩田と釜屋・かん水槽・塩納屋・水尾など関連施設、流下式塩田の枝条架が整備され、製塩技術の発展を学習することができます。
西浜塩田は工場用地として造成され、工業地域として地域経済を支えています。工業地域と市街地との境界線には環境保全のために延長4km に幅員50 〜100 メートルの緑地「グリーンベルト」が整備され、往時の西浜塩田の外郭をみることができます。
このように時代の変化の中で、かつて赤穂の海浜部を埋め尽くしていた塩田風景は姿を消してしまいました。
しかし、赤穂は現在でも国内の塩の約20%を生産し、赤穂の地域経済を支えています。 また、塩づくりは人々の生活文化、習俗にも深く根付いています。赤穂に残る塩業関連の神社仏閣や各種のお祭り、さらには日本三緞通(だんつう)の一つである赤穂緞通や、赤穂の海に沈む夕陽をヒントに江戸末期に考案された塩味饅頭は赤穂を代表する名産品です。
このように赤穂の歴史と文化は、瀬戸内海から生み出される塩とともに息づいています。
赤穂は今なお「塩の国」なのです。
赤穂流下式塩田
塩の国赤穂吹出@4x
瀬戸内海は波の静かな良好な航路として古来より利用され、江戸時代には西廻り航路によって、東北・北陸と西日本一帯が航路で結ばれていました。坂越地区にある坂越浦は湾状地形と風除けとなる生島の存在から古来より天然の良港として栄えてきました。
坂越浦では古くから廻船業があり、17世紀に開設された西廻り航路の発展とともに、瀬戸内海有数の廻船業地となっていきます。廻船業者として33家、船は118艘あったと言われています。当時の廻船記録によると木綿、紙などを積み込み、西国(肥前など)や北国(出羽など)へ下って木綿、紙等を売却した後、現地で米を購入し、大坂、堺へと輸送していたことなどが記されています。
江戸時代後期に入り北陸を中心とする北前船が活躍するようになると、坂越浦の廻船業者は仕事を奪われ一時衰退しますが、赤穂の塩問屋などから塩を購入して江戸へ廻送する塩廻船として生き残っていきました。
塩廻船_要差し替え
復元された塩廻船(赤穂市歴史博物館)
40坂越の船祭
坂越の船祭
塩廻船 坂越ワン
塩田でつくられた塩は塩田に張り巡らされた水尾(水路)の中を上荷舟が行き来し塩倉庫に運ばれました。こうした塩倉庫や水尾は現在も一部が残されています。
また、かん水を煮沸する煎熬作業では莫大な量の薪が必要でした。これらの薪は高瀬舟によって千種川上流部から運ばれてきました。
千種川は上流と下流を結ぶ交通路であり、千種川の川岸には各地で波止が築かれ、江戸時代には村ごとに高瀬舟を持ち、物資の流通に利用されました。下流部から上流部には主に塩が運び込まれ、上流部から下流部には、年貢米のほか製塩資材などが運ばれたといわれています。ただし、木津に赤穂水道を取水する井堰があったため、農業用水が必要な6~7月には通行不可となっていました。
上流部にあたる有年地区には、高瀬舟の船着き場である大波止・小波止だけでなく、大変珍しい舟灯台が山上に残されています。
 
上荷船
上荷舟
高瀬舟02
高瀬舟
積込
釜屋と上荷舟(昭和30年代)
陸上げ
専売局の荷上場と上荷舟(昭和30年代)
4塩田の水尾の様子
水尾と上荷舟(昭和30年代)
河川と沿岸の輸送吹出@4x
西浜、東浜に合同製塩工場ができると、釜屋での煎熬作業がなくなり、上荷舟や高瀬舟による物流が減少します。また、全国に鉄道が敷設されるようになると物流の主流が船から鉄道へと変化します。赤穂でも千種川の上流部と下流部の物流には鉄道が利用されるようになりました。
赤穂鉄道は1921年から1951年まで有年から赤穂を結んでいた軽便鉄道です。赤穂では明治23(1890)年に山陽鉄道が有年駅まで開業しましたが、赤穂の南部は鉄道ルートに入っていませんでした。明治43(1910)年に、軽便鉄道法(簡便な規格の鉄道)が公布されると赤穂鉄道が計画され、大正10(1921)年4月に開通しました。現在の播州赤穂駅とは別の場所に播州赤穂駅が設置され、そこから砂子、坂越、目坂、根木、周世、真殿、富原、有年に駅や停車場がありました。赤穂鉄道は小さい鉄道だったため、乗客が多い時には、登り坂で止まってしまうこともあったと言います。営業成績は良好で、当初は蒸気機関車2両、客車6両、貨車10両でしたが、昭和26(1951)年には蒸気機関車4両、ディーゼル機関車1両、客車16両、貨車24両に増えました。しかし昭和26年に国鉄赤穂線が開業すると、その役割を終え、30年にわたる歴史に幕を閉じました。
大正10年以降、赤穂の塩はこの赤穂鉄道を使って運ばれ、赤穂の産業発展に大きく貢献しました。現在は、駅跡地や軌道跡が残るのみとなっていますが、軌道跡の多くは道路となり、現在も市民生活を支えています。
鉄道による塩の輸送吹出@4x
赤穂鉄道路線図
鉄道による塩の輸送吹出@4x
船(高瀬舟、上荷舟、塩廻船)の時代から、赤穂鉄道による輸送へ、そして現在の車による輸送まで、時代の変化と共に移り変わってきました。
キャラ
塩づくりと物流
キャラ
江戸時代の入浜式塩田大型開発により全国にその名を知られるようになった赤穂の塩。あなたの街にはどんな資料がのこっているかな?
あなたの地区塩田資料
赤穂・城西地区は、赤穂市を南北に流れる千種川が運んだ砂が海を埋め立て、できた土地です。奈良時代にはすでに塩づくりが行われており、東大寺をはじめとした大きな寺院が、塩づくりのためにこうした土地(現在のJR播州赤穂駅周辺)を管理していました。室町時代になると陸地が南側に広がり、東の姫路と西の備前とを結ぶ道(街道)が生まれたため、人々がより集まり住むようになりました。
江戸時代になって池田家が支配するようになると、現在の赤穂城跡の場所に城が築かれるとともに、1620年の記録では、塩屋地区とあわせて約35ヘクタール(0.35k㎡)もの塩田があったことが分かっています。
赤穂・城西地区のほとんどは赤穂城とその城下町でしたが、城西地区の西側が塩屋地区とあわせて「西浜」と呼ばれ、塩田がつくられていました。浅野家の支配を経て森時代になると、西浜塩田は最大200ヘクタール(2k㎡)と大変大きくなり、城西地区にも大塩田が築かれます。
明治時代には現在の塩づくりを国が管理するようになり(専売(せんばい)制)、城西地区にその役所(日本専売公社赤穂支局/現在の赤穂市立民俗資料館)ができます。これ以降、赤穂でつくられた塩は、ここで検査を受けた後に塩倉庫に納められ、全国に運ばれました。
当時、西浜塩田を営んでいた赤穂西浜塩業組合は、現在も株式会社に形を変えて、塩づくりを続けています。
赤穂_城西地区
こはまくん@2x
中学校:赤穂中学校
小学校:城西小学校、赤穂小学校
No. 画像 資料番号 タイトル 資料種別 地区 場所 製作年
1 KBT-0001 塩廻船模型 構成文化財 赤穂・城西 赤穂市立歴史博物館 1988
2 KBT-0003 旧赤穂西浜塩業組合 構成文化財 赤穂・城西
3 KB-0001 旧日本専売公社赤穂支局庁舎 構成文化財 赤穂・城西 赤穂市立民俗資料館 1908
4 KB-0004 赤穂の製塩用具 構成文化財 赤穂・城西 赤穂市立歴史博物館
5 KBT-0021 赤穂市立歴史博物館 構成文化財 赤穂・城西 赤穂市立歴史博物館 1988
6 KB-0003 赤穂城跡 構成文化財 赤穂・城西 赤穂城跡 1661
7 KB-0002 専売公社塩倉庫群 構成文化財 赤穂・城西 赤穂市立民俗資料館 1908
8 KB-0005 赤穂浅野家藩札 構成文化財 赤穂・城西 1680
9 KB-0006 赤穂東浜信用購買組合文書 構成文化財 赤穂・城西 赤穂市歴史博物館
10 KB-0013 西浜塩田資料 構成文化財 赤穂・城西
塩屋地区は、赤穂でもっとも古く塩づくりを始めた地区です。山陽自動車道赤穂インターチェンジをつくるときの発掘調査で、弥生時代の終わりごろの塩づくり専用の土器(製塩土器)がたくさん見つかりました(堂山遺跡)。この周辺は「大津(大きな津=港)」と呼ばれ、昔は海岸だったと考えられており、塩づくりはそこで海水を煮詰めて作られていました。この遺跡の発掘調査では、平安時代に塩田が築かれていたこともわかっています。
その後、川が運び込んだ砂などによって海が自然に埋め立てられ、陸地はどんどん南に広がっていきます。それとともに塩田も南側に作られるようになっていき、江戸時代のはじめころには塩屋、木生谷(きゅうのたに)といったそれぞれの村で塩田がつくられていました。特に塩屋地区は、城西地区とあわせて35ヘクタール(0.35k㎡)もの塩田があったことがわかっています。
浅野家の支配が終わり、森家の時代になると、塩屋地区を中心とした塩田は「西浜」と呼ばれ、最大200ヘクタール(2k㎡)と大変大きくなり、質の良い「真塩(ましお)(古浜(こはま)塩)」をつくり、主に大坂や京都に販売されました。当時、「赤穂塩第一也(赤穂の塩は日本一だ)」と評価されていました。この時活躍したのが塩屋村で大庄屋をつとめた柴原家で、柴原家が残した古文書によって、当時の西浜塩田の様子がよくわかっています。また塩屋村の守り神である塩屋荒神社では、秋祭りに屋台行事が行われており、当時、塩で栄えたまちの名残を伝えています。
中学校:赤穂西中学校
小学校:塩屋小学校
No. 画像 資料番号 タイトル 資料種別 地区 場所 製作年
1 KBT-0004 西浜塩田の水尾と熮場跡 構成文化財 塩屋
2 KB-0011 塩屋のまちなみ 構成文化財 塩屋 塩屋
3 KB-0008 塩屋荒神社・塩釜神社 構成文化財 塩屋 塩屋荒神社
4 KB-0009 塩屋荒神社屋台行事 構成文化財 塩屋 塩屋荒神社
5 KBT-0005 堂山遺跡 構成文化財 塩屋 堂山遺跡
6 KB-0010-1 木造浅野赤穂藩主坐像(浅野長矩) 構成文化財 塩屋 光浄寺
7 KB-0010-2 木造浅野赤穂藩主坐像(浅野長直) 構成文化財 塩屋 光浄寺
8 KB-0010-3 木造浅野赤穂藩主坐像(浅野長友) 構成文化財 塩屋 光浄寺
9 KB-0007 真光寺旧蔵・柴原家文書 構成文化財 塩屋 赤穂市歴史博物館
10 KBT-0021 塩屋荒神社獅子舞 構成文化財 塩屋
西部地区は、折方(おりかた)、顛和(てんわ。鳥撫(となで)、真木)のほか、1963年まで岡山県に入っていた福浦を含む地区です。もともとは平地がほとんどなく、漁業を営んでいたと考えられていますが、江戸時代初め頃になると、折方、鳥撫、真木でそれぞれ塩田が作られていたことが、古絵図からわかっています。現在の尾崎地区にある赤穂八幡宮は、東浜塩田の開発に伴い、鳥撫の銭戸(ぜんと)島にあった銭島八幡神社をうつしたものと言われており、また銭戸島周辺も江戸時代後期には干拓によって大塩田が築かれるなど、昔から塩づくりとの関係が深い地域です。
一方で福浦は、入江状の地形であったものが、1624年と1682年にそれぞれ大干拓が行われて新田が築かれていましたが、江戸時代後期には海岸沿いの塩田開発を行い、「古池塩田」ができました。この塩田は、1971年に廃止されて以後、現在もそのまま残されており、昭和時代につくられた流下式塩田の跡を実際に体感できる、全国でもただ一つの場所です。
中学校:赤穂西中学校
小学校:赤穂西小学校
No. 画像 資料番号 タイトル 資料種別 地区 場所 製作年
1 KB-0016 塩釜神社(福浦) 構成文化財 西部 塩釜神社
2 KB-0015 古池塩田跡 構成文化財 西部 古池塩田
3 KB-0014 鳥撫荒神社獅子舞 構成文化財 西部 鳥撫荒神社
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尾崎地区は、千種川が運び込んだ土砂の上にできた土地にあり、その歴史は古く室町時代以前にさかのぼります。1626年、尾崎の地に塩づくりが伝えられた伝承が残されていますが、尾崎地区が塩づくりの村として栄えはじめたのは、1645年に浅野家が赤穂を治めはじめてからで、初代藩主の浅野長直が、尾崎・御崎地区をあわせた「東浜塩田」の開発を始めたことによります。
1667年当時は島であった唐船(からせん)を起点として東側に長い土手を築き、大塩田を開発、約150ヘクタール(1.5k㎡)の東浜塩田をつくりあげました。なお、塩田があったころの水路(水尾(みお))が現在もよく残されているのが東浜塩田の特徴ですが、古くから塩田が営まれていた尾崎地区の水尾跡が曲がりくねっているのに対し、浅野家時代に新しく塩田を開発した御崎地区の水尾跡は直線的なことがわかります。
東浜塩田では、西浜の「真塩(ましお)」に対し、「にがり」を多く含む「差塩(さししお)」を主につくり、そのほとんどを江戸方面に販売していました。江戸時代から昭和時代を通じて、全国的にもトップブランドであった赤穂東浜の塩ですが、1971年に塩田を使わない塩づくり法(イオン交換膜法)が開発されると、塩田は廃止されてしまいました。現在、尾崎地区は住宅地となっていますが、旧市街地の曲がりくねった道や、町中をめぐる水尾跡がその名残を伝えています。
中学校:赤穂東中学校
小学校:尾崎小学校
No. 画像 資料番号 タイトル 資料種別 地区 場所 製作年
1 KB-0022 塩釜神社(尾崎) 構成文化財 尾崎
2 KB-0018 赤穂八幡宮 構成文化財 尾崎 赤穂八幡宮 1406
3 KB-0020 赤穂八幡宮獅子舞 構成文化財 尾崎 赤穂八幡宮 1661
4 KB-0037 赤穂浜鋤き唄 構成文化財 尾崎
5 KB-0019 赤穂八幡宮神幸式の頭人行列 構成文化財 尾崎 赤穂八幡宮
6 KB-0021 岡田弥兵衛墓碑 構成文化財 尾崎 如来寺
7 KB-0023 尾崎のまちなみ 構成文化財 尾崎
8 KB-0036 赤穂宝専寺恵比寿大黒舞 構成文化財 尾崎 宝専寺
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御崎地区は、江戸時代のはじめに赤穂を治めた浅野長直が、1646年にこのあたりの土地で塩田開発を行ったことに始まります。1667年当時、島であった唐船(からせん)山の東方に大きな土手(現在の兵庫県立海浜公園の南端の堤防)を築き、「三崎新浜(みさきしんはま)村」をつくりました。当時は低い土地をすべて塩田としたため、村の人々は斜面地に住んでいました(現在、寺が多く建っている地域です)。
東浜塩田では、西浜の「真塩(ましお)」に対し、「にがり」を多く含む「差塩(さししお)」を主につくり、そのほとんどを江戸方面に販売していました。江戸時代から昭和時代を通じて全国的にもトップブランドであった赤穂東浜の塩ですが、1971年に塩田を使わない塩づくり法(イオン交換膜法)が開発されると、塩田は廃止されてしまいました。現在、御崎地区は兵庫県立赤穂海浜公園と住宅地となっていますが、海浜公園内に整備された復元塩田「塩の国」では、塩づくりの歴史を学び、体験することができます。
なお御崎の女性は、大変厳しい塩田作業の手伝いをしながら「赤穂緞通」という織物を織って全国へ出荷しており、「日本三緞通」の一つとして有名です。
中学校:赤穂東中学校
小学校:御崎小学校
No. 画像 資料番号 タイトル 資料種別 地区 場所 製作年
1 KB-0031 伊和都比売神社 構成文化財 御崎 1682
2 KB-0034 御崎のまちなみと水尾 構成文化財 御崎 1646
3 KB-0026 田淵家文書 構成文化財 御崎 赤穂市立美術工芸館
4 KB-0024 田淵記念館・庭園 構成文化財 御崎 田淵記念館
5 KB-0027 東浜塩田水尾跡 構成文化財 御崎
6 KB-0029 兵庫県立赤穂海浜公園「塩の国」 構成文化財 御崎 1987
7 KB-0025 赤穂市立美術工芸館田淵記念館の収蔵品 構成文化財 御崎 田淵記念館
8 KB-0030 東浜塩田の防潮提(唐船大土手)と波止 構成文化財 御崎 1667
9 KB-0032 赤穂御崎の景観 構成文化財 御崎
10 KB-0033 東浜塩田取水施設跡 構成文化財 御崎
坂越地区は、全長2㎞のまるで円を描くような坂越湾と、その湾内に浮かぶ生島によって、航海する船が風波を避けることができる天然の良港として、廻船業で栄えたまちです。1445年の古文書には、すでに坂越の船が神戸方面に向かっていた記録が残されており、古い歴史を持っていたことがわかります。また千種川にも近く、川を上下する高瀬舟(たかせぶね)が運ぶ物資(上流へは塩を、上流からは塩をつくる燃料となる薪や年貢米を運んでいました)も坂越に運ばれるなど、海上交通だけでなく陸上交通にも便利な場所でした。
江戸時代には「坂越浦」と呼ばれ、北海道をはじめとした北国と大坂とを結ぶ「西廻(まわ)り航路」の港の一つとして全国とつながっており、赤穂の塩を全国へ運ぶ役割を果たしました。現在も、こうした歴史を多くの歴史的な建物が伝えており、当時の港町の雰囲気を感じることができます。
また、秦河勝(はたのかわかつ)をまつる大避神社の境内には廻船業で栄えたことを示す船絵馬が多く掲げられ、秋に行われる大避神社の祭礼「坂越の船祭」(国重要無形民俗文化財)なども、こうした廻船業で栄えた人々が受け継ぎ、続けてきた祭りとして大変貴重なものです。
中学校:坂越中学校
小学校:坂越小学校
No. 画像 資料番号 タイトル 資料種別 地区 場所 製作年
1 KBT-0006 奥藤酒造 構成文化財 坂越
2 KBT-0007 高瀬舟船着場跡 構成文化財 坂越
3 KBT-0008 黒崎墓所 構成文化財 坂越
4 KB-0041 坂越のまちなみ 構成文化財 坂越
5 KB-0040 坂越の船祭 構成文化財 坂越
6 KBT-0009 坂越湾 構成文化財 坂越
7 KBT-0010 船賃銀定法 構成文化財 坂越
8 KB-0039 大避神社 構成文化財 坂越
9 KBT-0011 大避神社奉納船絵馬 構成文化財 坂越
10 KB-0017-02 砂子停車場跡 構成文化財 坂越 1921
高雄地区は、市内を南北に流れる清流千種川がつくる自然豊かな地区として知られています。千種川は洪水の多い川でしたが、洪水で運ばれた砂は豊かな土を含んでおり、そうした土を使って、大きな水田が営まれました。また江戸時代には「日本三大水道」として有名な旧赤穂上水道の取水口がこの地に作られましたが、これは高雄地区の西側にある細長い山(西山)に千種川がぶつかったとき、水があふれる「澪(みお)」ができることを利用したもので、上澄(ず)みの水を使うことで、飲み水として使いやすいきれいな水が運ばれたのです。この川を上下したのが、高瀬舟(たかせぶね)です。高瀬舟は、上流へは塩を、下流へはそれをつくるための燃料(薪)や年貢米を運びました。高雄地区は、南北流通の通り道として機能したのです。
近代になると、高瀬舟に代わって小さな鉄道「赤穂鉄道」が設置され、高瀬舟に代わって大量の物資を運びました。現在、この線路跡のほとんどは道となり、たくさんあった駅の跡は、それぞれに立てられた標柱によって知ることができます。
中学校:坂越中学校
小学校:高雄小学校
No. 画像 資料番号 タイトル 資料種別 地区 場所 製作年
1 KBT-0012 周世坂峠地蔵 構成文化財 高雄
2 KB-0017-07 真殿駅跡 構成文化財 高雄 1921
3 KBT-0013 赤穂鉄道根木鉄橋基礎跡 構成文化財 高雄 1921
4 KBT-0014 千種川 構成文化財 高雄,有年
5 KB-0017-08 富原停車場跡 構成文化財 高雄 1921
6 KB-0017-06 周世停車場跡 構成文化財 高雄 1921
7 KB-0017-05 根木駅跡 構成文化財 高雄 1921
8 KB-0017-04 目坂停車場跡 構成文化財 高雄 1921
9 KBT-0015 高雄船渡取水井堰 構成文化財 高雄
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縄文時代からの遺跡が数多く残り、「文化財の宝庫」と呼ばれる有年地区。塩づくりに関する遺跡は少ないですが、東有年・沖田遺跡において、弥生時代終わりころの塩づくりのための土器(製塩土器)が出土しています。当時の塩づくりは海沿いで行う必要があったことから、この土器は、作られた塩と一緒に運ばれてきたと考えられています。
有年地区は、江戸時代に西国(さいごく)街道(現在の国道2号)沿いの宿場町(しゅくばまち)として栄えた地域ですが、それとは別に、千種川を上下する高瀬舟(たかせぶね)の南北交通の場でもありました。高瀬舟は、下流からは塩を運び、上流からは塩をつくるための燃料(薪)や年貢米を運んだといいます。この髙瀬舟の目印として作られたのが「舟灯台」です。またその麓(ふもと)の千種川沿いには、高瀬舟の船着き場である「大波止(おおばと)」が現在も残されています。
大正時代になり、赤穂と有年とを結ぶ小さな鉄道「赤穂鉄道」が開かれると、高瀬舟はすたれていき、代わりに鉄道による陸上交通によって塩は運ばれました。赤穂鉄道有年駅は、相生方面と上郡方面、そして赤穂方面とを結ぶ結節点として、多いに栄えたのです。
中学校:有年中学校
小学校:有年小学校
No. 画像 資料番号 タイトル 資料種別 地区 場所 製作年
1 KBT-0016 舟灯台 構成文化財 有年
2 KBT-0017 千種川 構成文化財 高雄,有年
3 KBT-0018 大波止・小波止 構成文化財 有年
4 KBT-0019 東有年・沖田遺跡公園 構成文化財 有年
5 KBT-0020 有年宿 構成文化財 有年
6 KB-0017-09 赤穂鉄道有年駅跡 構成文化財 有年 1921
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真光寺旧蔵・柴原家文書
柴原家文書2
西浜の塩田地主で代々塩屋村大庄屋を務め、近世後期には赤穂藩の蔵元を務めた柴原家が所蔵していた文書群。明治39(1906)年、同家が破産した際、文書類の散逸を憂いた真光寺住職が譲り受け保管していたもので、その点数は1万点を超える。なかでも「柴原家年中用事控」は、寛延元(1748)年から120 年に及ぶ塩問屋の記録である。平成18(2006)年赤穂市指定文化財に指定。
田淵家文書
田淵家文書
東浜の塩田地主であった田淵家が所蔵していた諸文書類で、塩田経営等の諸帳簿類等が多く含まれており、塩田地主の多角経営の実態をよく示している。このほか、藩主御成の記録、茶会記や庭園での饗応など、当時の庭園利用の様子などを知ることができる。また、田淵家の歴代当主は芸能や茶道に造詣が深く、芸能に関する諸冊子も残されている。平成17(2005)年赤穂市指定文化財となる。
東浜信用購買利用組合文書
東浜信用購買利用組合文書
浅野家によって入浜塩田が開発された東浜塩田は、明治38(1905)年には約152 町歩を誇った。専売制のもと大正13(1924)年に赤穂東浜信用購買利用組合が発足した。本資料はこの組合が昭和47(1972)年に解散するまでの約半世紀にわたる記録であり、大正から昭和期にかけての日本塩業の激動期の動向や技術革新など、近代製塩史上貴重な文書類である。平成12(2000)年に赤穂市指定文化財に指定。
西浜塩田資料
西浜塩田
西浜塩業組合の昭和前期から平成までの資料群で、㈱日本海水に保管されていたものが平成29(2017)年赤穂市に寄贈された。資料は昭和20 〜40 年代のものを中心に、古写真・図面・地図・関係書類等の総数4,800 点を超える膨大な記録からなり、なかでも入浜塩田から流下式塩田への転換・導入にかかる設計図面・写真等が含まれるなど、近代製塩の技術的な展開を示す貴重な資料群である。
えんむちゃん03@2x
えんむちゃん
(日本専売公社赤穂塩務局)
こはまくん04@2x
こはま君
(古浜、西浜塩田)
しんはまくん@2x
しんはま君
(新浜、東浜塩田)
坂越ワン
坂越ワン
(坂越湾、塩廻船)
古くから塩づくりを行う職人肌の「こはま君」、新しく塩づくりをはじめ合理的な「しんはま君」。明治時代以降に突然現れ、塩の高品質化、生産の効率化を求める謎の女性「えんむちゃん」…
こはま君は昔ながらの地道な方法で「真塩」をつくり、味にうるさい大坂や京都へ販売。生産量は少ないものの、その評価は高く将軍にも献上されました。赤穂の塩が『日本第一』と評価されることに内心誇りを持っています。
しんはま君は合理的かつ大規模な入浜塩田を築き、目方を増やすために「にがり」を加えた「差塩」を作ります。この塩は大量消費地の大都市江戸に運ばれ、その認知度は高く、赤穂の塩が『日本第一』と評価されることを自慢します。
2人は塩づくりの考え方、作り方、できる塩は違うものの、赤穂の塩づくりに携わる者として、互いに尊敬の念を抱いてきました…。
明治維新が終わりしばらくしたとき、突如謎の女性「えんむちゃん」が現れます。彼女は2人に「おいしい塩を作って!」とお願いします。2人はおいしい塩をがんばって作りますが、こはま君は「量が少ない…」、しんはま君は「ちょっと水っぽい…」と言われてしまいます。
2人は塩づくりを改良し、おいしい塩を作り出しますが、今度は「高すぎて売れない…安くておいしいお塩が好き!」と言われてしまいます。そこで作り出したのが流下式塩田。生産量は激増し、2人とも大成功。えんむちゃんにどちらが優れているか選ぶように迫ります。えんむちゃんが選んだのは、全国的にみて生産量が多かったしんはま君!こはま君がっくり…しかしここで諦めないのがこはま君。なんとこれまで大事に育ててきた大塩田を捨て、工場に籠り、イオン交換膜法による塩づくりに全国で初めて成功!「白い結晶」ともいうべき完全な塩を作り出したのです。えんむちゃんはこの塩を大変気に入りました。しかし今度はしんはま君が「塩田法の塩がいちばん!えんむちゃんは昔ながらの塩の良さに気付いてくれるはず!」と新たな塩づくりに邁進していくのでした…。